読書録

本の内容紹介をしながら、自分の意見を述べます

第八回 『サピエンス全史 下』ユヴァル・ノア・ハラリ

約2ヶ月間が空いてしまいました。前回の続きで、 またサピエンス全史です。読了したのは2ヶ月ほど前なのですが、色々と忙しく全く書けませんでした。くだらない前置きはさておき、この下巻は、主に科学と資本主義に重きを置いています。

特に今回紹介したいのは、個人の発達についてです。

近代になると政府の力はより大きくなり、人々はかつてないほど政府の命令に支配されるようになった。以前までの家族と地域コミュニティは国家と市場に取って代わった。部族や町、王国、帝国もあったが、あらゆる人間社会の基本構成要素は家族や地域コミュニティの小規模なものであった。

産業革命以前は、ほとんどの人の日常生活は、古来の三つの枠組み、すなわち、核家族、拡大家族、親密な地域コミュニティの中で営まれていた。人々は農場や工房といった家業に就いていたので、家族は、福祉制度、医療制度、教育制度を担い、建設業界であり、労働組合であり、年金基金であり、保険会社であり、メディアであり、銀行であり、警察でさえあった。つまり、誰かが病気になると、家族が看病し、誰かが歳を取れば家族が世話をし、子供達が年金の役割を果たした。誰かがなくなると、残された子供の面倒もみたし、誰かが家を建てたいと思えば、家族が手伝った。誰かが身を固めたいと思えば、その相手を家族が選んだり、厳しく審査したりした。誰かが資金を必要とした時、家族が用立て、誰かが隣人と揉め事になった時、家族が加勢し、暴力沙汰に発展すると、地域コミュニティが解決した。

コミュニティは、自由市場の需要と供給との法則とは大きく異なっていて、誰かが困っていたら、無償で助け、この助けた人が困った時には、また皆で助けるように、報酬を必要としなかった。市場が無いわけではないが、日用品はほとんど、家族とコミュニティによって賄われた。つまり、 コミュニティは助け合いが当たり前という理念で成り立っていた。

王国や帝国もあるが、これらは、大規模な事業、つまり、戦争や道路の整備、宮殿の造営を行ったが、ほとんどは、税を徴収するだけで、家族やコミュニティの日常の営みに介入することは無かったし、たとえ介入しようとしても、今までの伝統を崩して、政府の役人や警察、教師、医師といった人々を養うだけの余剰はなく、依然として、それらの分野を家族やコミュニティに委ねる方が良かった。

これらのことから、家族やコミュニティを失った人は、死んだも同然だった。仕事もなく、教育も受けられず、病気になったら看病もしてもらえない。

しかし、こうした状況はここニ世紀の間に一変した。産業革命によって、市場にかつてないほど大きな力が与えられ、国家は、余剰が生まれたので、より自らの力を行使しようと思った。ところが、当初そうしようとすると、外部介入を全く快く思わない家族やコミュニティが邪魔をした。つまり親やコミュニティの長老は、若い世代が国民主義的な教育制度に洗脳され、軍隊に徴収されたり、拠り所のない都市のプロレタリアートになったりするのを、むざむざと見過ごそうとはしなかった。

そのうち、国家や市場は、強大化する自らの力を使って家族やコミュニティの結びつきを弱めた。国家は警察官を導入し、地方に派遣をし、家族間での解決を禁止し、さらに裁判所による判決を導入した。市場は、行商人を送り込んで、コミュニティを市場に取り込み、地元の伝統を排した。しかし、これだけでは、頑丈な結びつきを断ち切ることはできなかった。

そこで国家と市場は、「個人になるのだ」と提唱した。つまり、国家と市場は、「親の許可なく、結婚するのもよし、自分の好きな仕事をするのもよし、好きなところに住むのもよし。」と吹聴した。

こうして今日のように国家と市場が以前まで、家族や地域コミュニティが担っていた役割を請け負い、個人が、よく言えば、自由になり、悪く言えば、道しるべがない暗闇に放り出された。

『感想』

よく、個人と国家の対立が文学に書かれますが、この著者の考えによれば、国家の生みの親であると言う面白いことになります。この理論はなかなか斬新でとても納得させられました。

今日はもう少し踏み込んだ話をしようと思います。

山崎正和さんは『社交する人間 ホモ・ソシアビリス』で、人類は近代になって、選択肢の増加と言う名の、将来の不確実性によってより多くの不安を感じていると主張していました。今回の本の主張と結びつけると、以前までは自分は親の家業を継ぐことがほとんど決まっていたので将来の期待は薄いものの、職につけないという不安はありませんでした。しかし、近代になると、選択肢の増加、拠り所となる家族、地域コミュニティの乖離によって不安が増加したと考えられます。産業革命や、一連の社会制度の変化によって、量的には確実に幸せになった我々ですが、精神的には果たして幸せになったのでしょうか?